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インストラクター太田麻美のプロフィール

社会人のスタートは臨床検査技師

中学生になった頃くらいから、誰にでも出来るような仕事ではなく、いつも緊張感が持てるような自分にしか出来ない仕事に就きたいと考えていました。 当時通っていた塾の先生に臨床検査技師という職業を教えて頂いて、血液を調べたり細菌を培養したり、患者さんがどんな病気の可能性があるのか、調べる仕事ということ。 身体のなかで何が起こっているのかを追究する、というのに興味をそそられ、また単純に白衣に憧れもありましたし、医療の現場にいることで、毎日新鮮な気持ちで仕事が出来るのでは、と思い臨床検査技師を目指すことにしました。 元々は文系が得意で国語が大好きでしたが、技師になるために理系のクラスに進み、宮城県立の専修学校に入学しました。 専修学校では3年間実習に明け暮れ、国家試験前には猛勉強して臨床検査技師の免許を取得し、卒業後は札幌市内の検査センターに就職しました。 細菌課に配属され、顕微鏡で寄生虫がいないか調べたり、細菌を増やすための土壌(培地)を大量に作るのが当時の私の仕事でした。 なりたい職業に就いたものの、なんとなく物足りなさを感じていました。

臨床検査技師からアパレル業への転身

休日は街に出てファッションビルをよく回っていました。 カフェでお茶を飲みながら、街を歩く人のファッションを見るのが好きでした。 学生のときから古着も着ていて、洋服は大好きでしたし、詳しくはありませんが、アンティークの食器や家具も好きだったので、いつか自分でアンティークも扱う小さな洋品店が出来たら良いなぁと思うようになりました。 その頃、ファッション誌で気になる服があり、その後も目にとまる服という服がすべて同じブランドだと気づきます。 ヨーロピアンクラシックがそのブランドのテーマでした。 とにかく過剰なほどのビーズ使いや繊細なレースがあてがわれた服は魅力的でしたし、当時は珍しかったファーをあしらったサンダルやサボに目を奪われました。 東京の代官山に本店があり、札幌での取り扱いはありませんでしたから、兄の結婚式で東京へ行くことになったときは嬉しくて、結婚式が終わったら勇んで代官山へ出かけました。 お店の中は想像通り、宝箱のようでした。 アンティークの服や靴もあれば、中世のヨーロッパを感じさせるウエストの絞り込まれた上質なジャケットやおしりの部分が膨らんだバッスルスカート、レースのついたペイズリー柄のワンピースなど、どの商品にも目移りするほど。 悩んだ末、コットンとスエードが組み合されたウエスタン調のスカートと、朱色と萌葱色、黒、生成りが格子状に組み合わされた生地に、ペイズリーと家紋が混じったような模様がプリントされている、京都の古い布を使ったロングスカートを購入しました。 そのときスタッフの方に、札幌に近いうちに出店するという話を聞きます。 いずれ自分のお店を開きたいと思っていた私は、その足掛かりとして、もうどうしてもこのお店で働きたい!という思いが抑えられず、札幌に戻ってすぐ本社に電話をして、面接があれば絶対に受けたいと伝えました。 販売未経験ではありましたが、代官山で購入したロングスカートをはき、靴もピカピカに磨いていったことで私の服好きを認めて頂いて、札幌店のオープニングスタッフとして働くことになりました。

店長としての苦労と経験

でも最初は勝手がわからず、接客に戸惑いました。 私自身が人見知りで、ぐいぐいと接客されるのが苦手でしたし、試着したくても、試着したら買わなければいけないのでは、と不安で、言い出せないまま店を出ることがよくありました。 だけど、それならかゆいところに手が届く、というか、お客様に居心地良く感じて頂けるような接客をしていこう、と決めました。 いつも笑顔でいることはもちろん。 お客様が惹かれている商品があれば、お客様の普段の服装をお聞きして店内にある似た服を合わせて、お客様が商品を購入したあとの自分をイメージしやすいようにしたり、「試着してみると印象が変わりますので、試着だけでもどうぞ。」とお客様にストレスがかからないようにと気を配っていました。 その甲斐あってか私を指名して来店してくださるお客様も増え、全身のコーディネートを任されることもあり、お客様に信頼して頂くことはなんとも言えない喜びでした。 販売は売り上げのノルマなどでシビアな面もあり落ち込むこともありましたが、お客様に支えられて、仕事を続けられました。 札幌店のオープンからしばらくして、売り上げが徐々に下がり、撤退の可能性がありました。 その時売り上げが他のスタッフより少し多かった私が店長を任され、しばらくは休みの日もお店に出て、接客をしていました。 面接で私を信じて採用して下さった上司のためにも、撤退は絶対にしたくないという強い思いがありました。 スタッフの力添えもあり売り上げも回復し、札幌店の撤退はなくなりました。 しかしそのあと、私の人間的な弱さもあり、店長としてスタッフの教育を徹底できず、またスタッフの気持を汲み取れないことも多々ありました。 同時期に採用担当だった上司が左遷、私が惚れ込んでいた商品を作ったデザイナーと、私たちを教育してくれたマネージャーが退職、とショックなことが続き体調を崩してしまって、私もそのお店を退職することにしました。

そしてピラティスインストラクターへの道へ

その後は「自分でお店をやりたい」というモチベーションが下がり、人生の路頭に迷いこみます。 いつも何かしら目標を持って生きてきたのですが、これから何をしたいのか、わからなくなりました。 そんな日々が2年ほど続いて、ピラティスに出会います。 カラダがどんどん変わっていくことで、自分もまだ、変われるんだ。と自分の可能性を信じられました。 ピラティスは私に、力をくれたんです。 この素晴らしいエクササイズを広めたい、とインストラクターの道を選び、現在に至ります。 生徒さんに体調が良くなった、痩せた、気持ちが明るくなった、など声をかけて頂くと本当にピラティスに出会えたことや、インストラクターとしてお仕事させて頂ける喜びを感じます。
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